花はそれでも
わたしが欲しいのは愛か死よ
愛とはなんだろう
わたしにとって愛を一言で表せと言われたらきっと、犠牲だと答えると思う。
わたしの心の奥底の方でなんとなく、愛と犠牲は怖いくらい密接している。
例えば何かの場面で生命の選別が行われなければならないとして、愛する存在のためならわたしは生の方に振り分けられなくてもかまわない。
そう思える存在がわたしにとっての愛だ。
例えば、わたしが死ぬことで愛する人を救えるのだとしたら
わたしはいくらでも、何度でも、自分の命を差し出すと思う。
親友に、わたしを漢字一文字で表すと愛だと言われた。
愛を受け取るのも与えるのも、怖いくらい上手だと。
愛が人間の姿をしているのならお前だ、と。
大好きなドラマがある。
その人ともう一度出会うためならば、どれだけ恐ろしく険しく辛い道のりでも、どれだけ悲しい結末になるとわかっていたとしても、その出来事をもう一度初めから経験してもかまわないと思えたのなら、それこそが愛だと。
もしくは、一緒にいるとその人が傷ついてしまうとわかっているのなら、その人の穏やかでささやかな幸せを願うためにあえて出会わないという選択を、そのことによって自分が張り裂けそうなほど苦しくても、する、という愛も。
どちらが正解なのだろう。
きっと一生わからないのだと思う。
もしかしたら、わたしがこれこそが愛だと、やっとみつけたと思っても、それはただのわたしのエゴで、相手に対する押しつけになりうるかもしれない。
じゃあどうしたらいい?
わたしはあなたが過去にどれだけの悪事を働きどれだけの人を傷つけてきていたかわかっていました。
わかった上で、全部全部わかった上で、わたしはあなたに自分の命くらいくれてやると思っていました。
これは愛ではないですか?
きっともう死ぬまで、もしかしたら死んでも会えない相手だからこう思うのですか?
この世には2種類の人間がいると思っています。
ひとつは、100が満タンだとして、自分では100以下までしか愛をつくれない人。
この人たちは、誰かから受け取るしか自分の中の愛を満タンにできない。
もうひとつは、自分一人の力で、愛を120でも200でもつくれる人。
この人たちは、どれだけ傷ついたとしても、愛が少ない人たちに注いだとしても、自分で自分を満タンにすることができる。
わたしは、自分のことを後者だと思っています。
だからこそ、びしょ濡れになって震えている野良犬のような人を放っておけない。
だって、目があってしまったから。
例えあの目が偽りであったとしても、一度目があった野良犬にはありったけの愛を注ぎたかった。
そうすれば、わたしが愛する犬のようにこの世界になんの疑いを持つこともないような、まっさらな目にいずれ変わってくれるだろうと信じていたから。
お腹がいっぱいになってそのまま眠ってしまうくらい食べさせて、もう嫌だと思うくらいの毛布で包んでいつまでも隣で抱きしめてあげたかった。
もしかしたら運命だったかもしれない。
人生で自分に起こることには全て意味があるのでしょう。
わたしが18で彼と出会ったことにも、彼がいなくなったことにも、きっと。
ただ、所詮運命に過ぎなかった。
宿命ではなかった。
ただこう思うことでしか、自分を慰めることができません。