月まで

 

 

 

愛は、ふたりで守り抜かなければいけないんです。

 

 

すべてを懸けてもいいと思えるほどの相手の人生と自分の人生が完璧なタイミングに導かれたことによって交わることが許されたのであれば、その交差点で出会い、その人を愛すると決めたのであれば、ただ誠実に、ひたむきに、その愛を守り抜かなければいけない。

 

たとえ神に永遠を誓ったとしても神様はその愛を保障してくれるわけじゃないから。

 

 

 

 

神様なんてものがほんとうに存在するのであれば何発でも殴らせていただかないと気が済まないような人生です。

 

なにが神様は乗り越えられる試練しか与えないだ。

ほんとうにそうなのだとしたら、神はわたしのことを過大評価しすぎです。

 

乗り越えるために全てを捨てて、どれだけ目を凝らしても一寸先さえ見えない暗闇の中に裸足で、裸で、たったひとり灯りも武器も持たずに踏み入れるなんて。

 

 

祈りなんか捧げてやらない。

文句のひとつやふたつ叫んでから殴ってやります。

 

 

 

 

いつまでもわたしの隣にいて、永遠を誓ってと懇願するのではなく、わたしの人生の巻き添えにしたくないから遠くへ、できる限り遠くへわたしを置いて逃げてとせがむ愛の形も存在します。

 

 

 運命、とは一体。

 

 

 概念が存在するからそこに言葉も存在するのだと思います。

 言葉は、概念の後に生まれるものだと思うから。

 

 

 命を運ぶと書いて運命。

だからこそ、運命は自分で変えることができる。

だって、運命なんて言葉、タイミングを少し大袈裟に言っているだけでしょ?

 

自分の命がどこに、どのように運ばれるのかくらい自分で決める権利はあるはず。

それくらいは神に許しを乞うてもいいはずだから。

 

 

 

 

じゃあ、宿命は?

 

命に宿ると書いて宿命。

この世界に産み落とされたその瞬間から決められているのが宿命だとするとそれは自分の力ではどうすることもできないのでしょうか。

 

だからこそ、人間は明日がどうなるかもわからない今日をただ必死に生き延びようとするのでしょうか。

 

自分の宿命が何か自覚できた時、人はどうなるのでしょうか。

 

その瞬間が過ぎた後も、人は生きていけるのでしょうか。

 

 

 

 

底無しの暗闇の先から愛する人がわたしの名前を呼んでいたとしたら。

 

それが、運命の相手だとしたら。

 

 

 

きっと、たとえ裸でも、何も持っていなくても、その声がする方に向かって歩いていけるはず。

愛は脆く儚く実態がないのに、死さえ厭わないと思わせるほど人を強く突き動かすことができる唯一のもの。

 

 

 

 

愛、とは一体。

 

 

永遠、とは一体。

 

 

 

I love you をわたしが訳すなら、二葉亭四迷の死んでもいいわ、と高村光太郎の僕はあなたを思うたびに一番じかに永遠を感じる、を挙げます。

 

 

ふたりで完成させた究極の愛に死という釘をさして標本にすれば、ふたりのその愛は永遠に朽ちることがない。

 

死は、この世界に生きるもの全てに平等で唯一の、全てへの救済だから。

 

自殺も、他殺も、天寿も、全て死であり、死の後に残るものは大差がない。

 

 

生きている限り誰でもいつかは死ぬけど、誰だって死は恐ろしいはず。

死んだ後どうなるのか、どこへ行くのか、得体が知れないほど痛いのか、苦しいのか、怖いのか。

何ひとつわからないのに死は確かにそこに存在していていつでもわたしたちを簡単に招き入れようとする。

だからこそ、人は死を恐れる。

 

 

それでもあなたのためなら死さえ恐ろしくないと、恐ろしくても躊躇うことがないと、心の底から思うことができる感情こそが愛であると。

 

死は愛を表す過程であり、愛を守り抜くための手段だと。

 

 

 

永遠。

 

馬鹿げていると思っていた。

人の心は簡単に移ろうのにさも当たり前かのように永遠を誓うなんて。

 

でも、移ろうから、つなぎ止めておくことが難しいことだとわかっているから、人間は最も幸せを感じた瞬間にその瞬間を標本のように取っておきたい。

だから、人は永遠を誓う。

 

永遠は、愛を前にした時にだけ誓うことが許されるもの。

永遠を約束するから、いつまでも隣にいてくれという悲願。

 

 

 

 

もしも自分の愛する人が、これが自分の宿命だからと荒れ狂う濁流の中に自ら足を踏み入れたとしたら、あなたはどうしますか?

 

泣き喚いて全身全霊をかけてその人の歩みを止める?

それとも、ただ傍観している?

 

 

濁流を越えた向こう岸に渡ることが彼の宿命なら、彼が濁流に進んで踏み入れるのを見届けてからわたしも喜んで後を追います。

もしくは、濁流の中から一欠片の宝石を探し出してくるのが彼の宿命だとしたら、それまで待っていてくれと言われたらわたしは、鼻歌を歌いながら彼の帰りを待ちます。

 

待ち続ける。いつまでも。

 

 

彼の運命を、宿命を、受け入れる、一緒に享受する。

彼の隣にいようがいまいが、彼の身に降り注ぐ運命を一緒に享受する。

 

運命に翻弄されたり手綱をしっかりと握って舵を切ったりしながら宿命を果たす彼の人生に交わることこそがわたしの宿命なのだと、わたし自身の宿命を、人生を、目一杯享受する。

 

 

 

これが、もうじき20になるわたしが出した、わたしにとっての愛の形です。

 

 

 

 

 

今までは、愛は犠牲だと信じてきました。

 

愛する人のために喜んで自分の命を差し出せること。

それが、わたしにとっての愛だった。

 

 

でも、こんなの所詮独りよがりの押し付けがましい感情に過ぎないのだと気がつきました。

 

だって、わたしがそう望むからと言って濁流に踏み込む彼の歩みを遮ることは、どうしようもないエゴだと思わない?

 

 

 

濁流に共に足を踏み入れることも、彼の帰りを待ち続けることも、犠牲のひとつなのかも知れない。

 

でもそんな時間を乗り越えたその先には必ず何かが待ち構えていて、そんな未来が、暖かく、穏やかなものであればいいというやわらかな希望だけを抱いて今日を生きる。

 

 

そんな人生は、愛に生きるという人生は、犠牲が伴うかも知れないけどそれが全てじゃないでしょ?

一筋の優しい光だけを見つめながら歩いていけるのだから、あまりにも幸せなものになるはずでしょ?

 

 

彼が隣にいてもいなくても、ひとりで歩いていようがふたりだろうが、どちらでもいいのよ。

 

ただ唯一、わたし自身が幸せだと嘘偽りなく感じることができて、愛に満ち溢れた人生を生きられるのであればそれで。

 

 

 

 

わたしはもう、愛がどんな感情なのかを知っています。

そしてそれがわたしに何をもたらすのかも、わたしがそれを守るために何ができるのかも。

 

だからたとえ慰めに過ぎないくせにそれがないと生きられない愛情も、信頼も、もうしばらくは誰かから受け取らなくてもわたしはわたしの人生を、ひとりで戦い抜くことができる。

 

 

 

 

愛することに勇敢でありたい。

 

たとえ何がわたしを待ち受けていようとも、どれほど恐ろしく、苦しい今日を生き抜かなければいけないことになろうとも。

わたしはわたしに降り注ぐ運命を、わたしが生きることを選ばれた宿命を、愛そうと思う。

 

 

 

今日は満月です。

 

Take me to the moon and back, because I'm scared of nothing.

 

 

 

 

 

心からの愛を込めて。